なにげない日常が、かげがえのない時間だったりする。
一点集中全力疾走爆走中!のときは見落としがちなできごとを、いつかのモブ本のために書き記していこうと思います。
編集長のモブ日記。&わたしのすきなもの写真日記。
ルートブリュック壁陶
今日の会話より。
建築思想としての思考はどう考えているのかな?
新たな軸は、空間のゆたかさにつながるのか、なぜ必要なのか、そのための背景は何なのか、まず最初に考えていきたい。考え方としてはシンプルなのに、プランや建築としての在り方が複雑だったり、なぜその開口部なのかも含めて思考のシンプルさと形態としてのプランニングが本当に合っているのかどうか。思考のプロセスが少ないのではと疑ってみる。新しさに向き合った建築なのか、向き合わないプロジェクトとしているのか。そこが大切。アイデアとストーリのつくり方をいくつも出してみて、もしくは絞ってみて、どんな方法がかつての日本的なプランの代わりとなるのか、その魅力が空間・建築から伝わってくるのか考えてみる。
内装であれば、制限もあって必要機能も決まってて、マテリアルの在り方から過去未来、彫刻、ブランディングコンセプトから絞っていける。
でも家は?
本当に洞窟に住めないだろうか、木に住めないだろうか、布のような軽いもので建築できないだろうか。日本的な空間のつくり方を折り曲げて立体的にしたら?建具だけで建築つくったら?その結果、隙間が生まれたら機能を配置していけば、それは住めるんじゃないか、とか。
アイデアや発想を生み出すために、だからこそ、手を動かしスケッチし、思考を深く狭く、浅く広く考えていく。
非常に単純なものが実は難解で、難解なものが単純で、相反するものがなぜか魅力的で。簡単なもののつくり方は思考がないのか、複雑なものが思考があるのか。
思考というのは言うなれば、これまでの人生の過去みたいなもんで、提案するときには、そのバックボーンを生かしながら、今、未来を創造する感覚なんかもしらへん。だから、仕事しながら映画みながら遊びながらも、ずっと頭のなかでは、ものの根源みたいなものを考えておくといいのかも。結局どうしたいのか結論を急ぐよりも、その種を伸ばしてあげる努力をするほうが、いい子が育つ。(齋藤)
わたしたちの種が、芽が、いい子に育ちますように。